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小津 安二郎(おづやすじろう)

映画監督 映画人として初の日本芸術院会員

小津安二郎
1903(明治36年)
~1963(昭和38年)

「永遠に通じるものこそ常に新しい」
「テストと本番を同じように出来る人こそ名優だ」
「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」等の名言を残し、その作品群は小津調と言われ、今なお世界から高く評価されている。

東京深川生まれ。小学校の頃、父親の故郷である三重県松坂市にて過ごし、その後伊勢市の宇治山田中学校に移り、この頃に映画との出会いがあった。1917(大正6年)14才の時に公開されたハリウッド映画「シヴィリゼーション」に強く引きつけられた。1923(大正12年)20才の時に松竹キネマ蒲田撮影所に入社、撮影助手となった。1927(昭和2年)24才の時、時代劇「懺悔の刃」で監督デビューをした。1943(昭和18年)、戦時下の軍報道部映画班として南方へ従軍。この地でハリウッド映画を多数鑑賞することができた。1945(昭和20年)に終戦となったが、帰国は翌年の1946年であった。戦後は脚本家野田高悟と組み、茅ヶ崎館に投宿しながら脚本を書き続けた。晩春、麦秋、東京物語などの名作を次々と発表した。小市民や中流家庭を舞台に、親子の関係や人生の機微を描き、独自のローアングルの手法を磨き上げ、いわゆる小津調を確立し、日本映画界を代表する巨匠となった。1957(昭和32年)発表の東京暮色以降の作品は蓼科高原にて執筆活動を続け、晩年の名作を生みだした。

旅館茅ヶ崎館を常宿として松竹大船撮影所で製作したのは8作品と言われている。
小津安二郎が始めて茅ヶ崎館に訪れたのは1937(昭和12年)のことで、以後約20年続いた。
晩春、麦秋、東京物語等の代表作品がここで生み出された。

小津調とは、自身の強いこだわりを貫いて映画を製作したことに由来する。小津安二郎のカメラワークの基本はローポジションにカメラを据え、絶対にパンしないと言っている。パンとはパンフォーカスのことで、画の手前から奥までの人や物すべてに焦点を合わせて撮影する技法であり、小津はこれを嫌った。そして、日本の伝統的な生活様式と作法に対してのこだわりや、反復の多い独特のセリフまわし、加えて完璧な演技指導等など、美しさへのこだわりが小津調と言われ、現在でも高く評価されている。

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