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まち・ひと・茅ヶ崎の煌き

佐々木 卯之助(ささきうのすけ)

江戸幕府の大筒役

佐々木卯之助
1795(寛政7年)
~1876(明治9年)

佐々木伝左衛門の子として生まれた卯之助は、1824(文政7年)、29歳の時に江戸幕府の相州炮術調練所の責任者として、幕府大筒役となった。当時茅ヶ崎の海岸は幕府による天領とされていて、鉄炮方役人の銃術鍛錬の場として茅ヶ崎柳島村から藤沢の片瀬までの広域に調練場が設置されていた。赴任中に、いわゆる佐々木卯之助事件が発生する。

時は天保(1833~1839)。大筒役を命ぜられた卯之助であったが、世は大飢饉に見舞われ、民は食料に困窮し、餓死者が発生。天保の大飢饉に発展した。

この茅ヶ崎の民の惨状を目の当たりにし、卯之助は相州炮術調練場の敷地(茅ヶ崎市南湖の周辺)の一部を開放、耕作することを事実上黙認。卯之助の計らいは、茅ヶ崎の民から大変感謝された。しかし、のちの検地※により、この耕作が発覚し卯之助は長男の菊次郎と共に、伊豆の離島青ヶ島へ遠島の判決を受けた。
1868(明治元年)に赦免となるが、明治9年、82歳で青ヶ島で死去する。

死後、初代茅ヶ崎村長の発起人により、感謝を表し茅ヶ崎市東海岸五丁目に追悼の碑を建立。また、半農半漁だった茅ヶ崎市南湖の人たちは、鉄砲場内の耕作の恩恵に感謝し、南湖地区中町八雲神社境内に記念碑を建てた。
墓標は当初青ヶ島にあったが、のちに海前寺(茅ヶ崎市本村四丁目)に移されている。
茅ヶ崎には鉄砲道と呼ばれる通りがあり、この相州炮術調練場まで、伊豆の韮山反射炉で作られた鉄砲が運ばれる道であったという説がある。

※伊豆の江川太郎佐衛門英龍(ひでたつ)は、相模国を含む伊豆、駿河、甲斐、武蔵の天領を管理する代官であると同時に、1843(天保14年)に幕府鉄砲方に就任した。上の文中に検地とあるのは、検地の取締責任者であると同時に、佐々木卯之助を直接管督する幕府鉄砲方であった。

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