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友田 恭助(ともだきょうすけ)

新劇俳優 少年期の芝居小屋南湖座から文学座創立期の一人

友田恭助
1899(明治32年)
~1937(大正12年)

伴田の坂(ともだのさか)は平坦な南湖では高台である。海抜9mで、坂の上からは二子山や富士山、大山が見渡される。一帯は丸い石垣で囲まれた別荘である。近辺に続く石垣は別荘の名残を示すものである。別荘の跡地には、現在マンションが建っているが、この石垣の一部が今も残されている。

伴田別荘は、敷地3000坪の広大な土地に証券業の伴田六之助が建てた。茶室が3つもあったそうである。
友田恭助は本名伴田五郎といい、東京市日本橋区(現:東京都中央区)に実業家の伴田六之助の子として生まれる。幼い頃から芝居を好んで過ごし、錦城中学蛟へと進んだ。中学生の頃に演出家土方与志(ひじかたよし)と知り合い、伯母の住む茅ヶ崎の家に南湖座と名付けられた芝居小屋を作ってもらい、土方らと素人劇団を作りそこで演劇をしていた。
地域の年寄りや子どもたちを招いて公演をしていた。地域の楽しいひと時であったことが想像される。友田恭助13歳頃のことであった。

1917(大正6年)に早稲田大学独文科へと進み、在学中に新劇協会の畑中蓼坡(はたなかきょうは)の指導を受けて、1919(大正8年)に『ワーニャ伯父さん』で本格的な舞台初出演を果たした。翌1920(大正9年)に舞台『青い鳥』の大阪公演に専心するため早稲田大学を中退し、同年末、当時10代前半であった初代水谷八重子、夏川静江らと師走会(翌年わかもの座と改称)を立ち上げた
1924年、築地小劇場に創立同人として加わり、1928(昭和3)の久保田万太郎作「大寺(おおでら)学校」で新境地を開いた。1925(大正14年)に女優の田村秋子と結婚、築地小劇場解散後は夫人と劇団新東京をつくり、1932(昭和7年)に夫妻で築地座を結成、岸田国士(くにお)らの後援を得て、市民感覚にあふれた創作劇を上演し、一時代を築いたが、1936(昭和11年)年解散。翌年に文学座の創立に加わったが、前後して赤羽工兵隊に入隊、10月上海郊外で戦没した。


1899.10.30「帰り道」萬鐵五郎作
伴田の坂を描いたと言われている

関連人物

回遊スポット

  • 伴田の坂(鉄砲道の茅ヶ崎市消防署海岸出張所近辺の坂)は茅ヶ崎丸大市場南の坂あたり。消防署海岸出張所ではない。

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