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まち・ひと・茅ヶ崎の煌き

ピストン堀口(ぴすとんほりぐち)

拳聖 拳闘こそわが命

ピストン堀口
1914(大正3年)
~1950(昭和25年)

本名:堀口恒男。元日本フェザー級、東洋フェザー級、日本ミドル級チャンピオン。
戦歴は176戦138勝(82KO)24敗12引分け。
警察署長の子として栃木県真岡市で生まれる。
旧制真岡中学時代は柔道部の主将を務める。中学の先輩で「日本ボクシングの父」と称される日本拳闘倶楽部(日倶)の渡辺勇次郎が弟子達を率いて真岡市でボクシングの模範試合を行った際、堀口は腕試しのつもりで飛び入り参加しプロボクサー相手に2ラウンドを戦い、渡辺に度胸と才能を評価されて1932(昭和7年)に上京し、早稲田大学へ入学。日倶へ入門した。上京からわずか半月後に初試合を行いKO勝ちを収める。翌1933(昭和8年)にプロデビュー。その後、かつての名選手岡本不二の指導を受け、日倶から岡本氏と共に独立した。これにより、日倶の創設者、渡辺勇次郎氏からにらまれた堀口選手は、次第に試合枯れとなる。昭和11年1月、そんな日本から逃れるように、堀口選手と岡本氏はハワイへ渡る。ハワイの地で〝比国の英雄″、ハワイの人気者・東洋フェザー級王者B・D・グスマン(比)を破った堀口選手の人気は一気に上昇する。異国の地で連戦連勝の堀口選手の活躍は日本でも大きく報道される。

凱旋の堀口選手は空前の人気を博す。満員札止め興行が続く。ここに立ちはだかったのが、日倶の笹崎タケシ選手。笹崎選手は、堀口選手が去った後の日倶の秘蔵っ子。昭和16年5月28日の二人の対決は、発売後30分で売り切れる程の大人気、会場は蔵前国技館であった。戦前の予想は笹崎選手が有利。試合は、堀口選手の休みない連打に合わせ、「ワッショイ、ワッショイ」の声が場内を埋め尽くす。笹崎選手の顔面が腫れ上がる。試合は5回、全く一方的に打たれる笹崎選手にカウントが入る。なおも続行されたが、最後は白いタオルが試合を終わらせた。この試合は、日本ボクシング史上「世紀の一戦」と呼ばれるほど有名で、この試合に勝利して以降は「剣聖」宮本武蔵になぞらえて「拳聖」と称されるようになった。デビューから5引き分けを挟んで47連勝。最多試合、最多勝利、最多KO、最多連勝などの日本記録は二度とやぶられないといわれるほどの大記録を持ち、 時代がちがうとはいえ、1カ月で1試合のペースで戦った。さらに1週間のうちに10回戦を4試合こなしたこともある。それでも試合になると 堀口は疲れた素振りは全くみせず、ピストンのように打ちまり人々の心を魅了した。
対戦相手をロープに追い詰めての休まぬ左右の連打を得意とし、「ピストン戦法」と呼ばれた。また、剣道や空手など武道を通じて精神修養に励み、プロボクサーとしてではなく拳闘家として精神力と肉体の練磨に一層努めるようになった。

ただ、太平洋戦争の影響もあり世界王座を獲得する機会には恵まれなかった。1950年4月22日引退。戦後はボクシングの他探偵業もしていたが、現役引退から半年後の1950年10月24日午前0時過ぎ、東海道線の線路上を平塚方面から茅ヶ崎方面へ歩いている処を列車に撥ねられて轢死。泥酔して自宅に近い下車駅(茅ヶ崎)を寝過ごしてしまい、線路沿いを歩いて帰る途中だったといわれている。1937年にピストン堀口が茅ヶ崎市幸町に練習場として開いていたジムを、長男・昌信が引き継いで「ピストン堀口道場」として同市茅ヶ崎1丁目に開設し、現在は孫にあたる昌彰が会長の座を受け継いでいる。3代続けての早大ボクシング部である。道場にはピストン堀口の書「拳闘こそ我が命」の額が掲げられ、好んだ緑色がジムのマット色になっている。墓は茅ヶ崎市内の海前寺にあり、墓碑銘に「拳闘こそ我が命」と刻まれている。

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