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まち・ひと・茅ヶ崎の煌き

井上 有一(いのうえゆういち)

世界的に有名な型破りの書家

井上有一
1916(大正5年)
~1985(昭和60年)

東京の下谷に育つ。父は古道具屋を40年やっていた。美術学校に行きたかったが、月謝がいらなくて早く給料を貰えるからと、東京府青山師範学校に進む。
1935年、本所区横川尋常小学校の教員となる。1941年25才で書を始める。同僚の知人から上田桑鳩先生を紹介される。
1944(昭和19年)8月、6年生35名と千葉に疎開。翌年3月3日、卒業のため東京に戻る。10日大空襲で学校が丸焼けになり、避難して来たおよそ千人が焼け死んだ。階段下の物置に隠れていた井上は奇跡的に救出され、約7時間後に蘇生し冥土から戻った。5月頃、学童と岩手に疎開し、終戦を迎える。

1946(昭和21年)、父母と茅ケ崎に移住し茅ヶ崎第一国民学校訓導となる。1948年、上田桑鳩(そうきゅう)創行の「書の美」への出品と通信教授を始める。1950年茅ヶ崎一中の教諭となる。この頃東海岸(当時は砂地と松林ばかり)に仕事場を建てる。展覧会出品を桑鳩に勧められる。だが作品が思う様に書けず、父の仏壇の中に貼っておいた「自我偈(じがげ・法華経の如来寿量品第十六)」を剥がして持っていくと、「これだ。これが大好きだ」と桑鳩が誉めてくれた。亡父への供養を一心に書いたものが良い作品となった。「この心が大切だ、この心なくして作品は生まれない」と思った。「自我偈」は第三回書道芸術院展に出品され、好評を得る。同年、第六回日展にも入選した。

1951年には「雨ニモマケズ」「デクノボウ」、第四回書道芸術院展「三界無安」を次々と発表。1954年9月の丸善第一回墨人展では、油絵の具ばかりの作品を出品。その後、筆は箒に、紙はクラフトやケント紙に、墨はエナメルに変わって行く。
1955年、「作品9」の添え書きにはこう記されている。「メチャクチャデタラメに書け。ぐわーっとブチまけろ。狭い日本の中にうろうろしている欺瞞とお体裁をブッとばせ。お金でおれを縛り上げてもおれはおれの仕事をするぞ。一切の断絶。創造という意識も絶する。」

1956年2月5日号の週刊朝日に制作中の写真が掲載。菱沼海岸に引越。サンパウロ・ヴィエンナーレ展への日本代表の出品者に選ばれ「愚徹」を書く。この作品がハーバート・リードの感心を招き、1959年に発行された「近代美術史」に掲載され、世界的な作家として認められる事となる。これ以降、名作を次々に生み出し、世界各地で作品が紹介されていった。
狼涙忌:毎年6月第2土曜日、有一揮毫による法明寺「幽顕の塔」に集う。

1960年 「骨」東京国立近代美術館所蔵。

1961年 「仏」カ−ネギー財団所有。没後も各地で回顧展が開かれる。

1991年 「大きな井上有一」展が埼玉県立近代美術館、福岡県立美術館、新潟市美術館、山口県立美術館を巡回。

1999年 韓国初の日本書芸家招待回顧展 2000年 茅ヶ崎市美術館

2008年 中国鄭州・北京・広州・香港。2016年「生誕百年記念 井上有一」金沢21世紀美術館。2017年箱根菜の花展示室。

2017年 生誕 101 周年、雑巾で書いた「いろはにほへと」展示(農業協同組合寒川支店・所蔵作品展)。

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